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歴史的経緯とWHO-HPQによる生産性可視化の意義、「ISO 45003」解説


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ISO 45003

職場の健康管理の歴史的経緯

日本における働く方の健康を守る(衛る)社会的な制度の変遷を振り返ってみると、現状の課題がわかりやすくなると思いますので簡単に歴史を紹介します。

戦後の高度経済成長期(昭和29年~48年)が終わって昭和50年代になると、従来の職業病の予防などを主とした健康管理に加えて、積極的な健康づくりが求められるようになりました。

この考え方は「シルバー・ヘルス・プラン(SHP)」という新たな健康づくり運動を生み、昭和63年にはSHPをさらに進めてメンタルヘルスを含めた「心とからだの健康づくり運動=トータル・ヘルスプローモーション・プラン(THP)」へ発展しました。

その後バブルの崩壊後の失われた20年における精神疾患による自殺者数急増を受け、平成25年度からは厚生労働省が地域医療の基本方針となる医療計画に盛り込むべき疾病として指定してきた がん、脳卒中、急性心筋梗塞、糖尿病の4大疾病に、新たに精神疾患を加えて「5大疾病」とされ、社会におけるメンタルヘルスの重要性が認知されるようになってきました。

その後も職場でのうつ病などの気分障害による労災認定は大幅に増加していき、平成27年12月にはストレスチェック制度が導入され、今まで体の健康についてしか評価されなかった定期健康診断に、初めてメンタルヘルスに関する項目が追加されたことは記憶に新しいです。


「健康経営」とは1980年代に米国で生まれた概念で、働く方の健康増進を重視し、健康管理を経営課題として捉えてその改善を試みることで働く方の健康の維持増進と企業の生産性向上を図る経営手法のことですが、我が国ではあまり浸透してきませんでした。

平成25年には政府の成長戦略の1つとして「健康寿命」の延伸(健康関連事業市場の創造)が掲げられ、平成27年には経済産業省により企業や健康保険組合に健康経営を促すアクションプラン2015が取りまとめられ、健康経営銘柄の選定や優良取組事例の表彰などを通して我が国でも健康経営の考え方がようやく浸透してきた感があります。

ストレスチェックの義務化により定期健康診断の法定項目として心の問題が取り上げられたことの意義は大きいですが、このストレスチェック制度はWHOの3段階の予防分類(primary, secondary and tertiary prevention)からいうと一次予防にとどまっており、職場での十分な予防体制が確立されたとはいえないと我々は考えています。


WHO-HPQ日本語版による生産性可視化とその意義

 国際的なプレゼンティーズム指標WHO-HPQのような労働生産性の指標とともに、宮木らが文科省の労働者コホート研究で活用してきた働く人の満足度・幸福度といった「ソフトなアウトカム指標」soft outcome を健診時の追加的な評価指標として導入・「見える化」することが、最も革新的な部分と考えています。

今までの健康管理上、意識化されてこなかった労働パフォーマンスや働く人の満足度・幸福度を基本的なアウトカム指標に据え、二次予防(米国でエビデンスのある抑うつのスクリーニング等による早期発見・早期治療、および合併症対策による後遺症軽減)・三次予防(復職支援プログラム等による社会復帰・再発予防支援)を含めた総合的な体制を構築することで、国際的な予防医学分類に準拠したシステマティックな健康管理を実現しようというものです。

 我々はWHO-HPQ日本語版の翻訳と妥当性検証を行ってきただけでなく、以前から抑うつ度の評価にもハーバード大学ケスラー先生の別指標をコホート研究で利用してきており、簡便で国際比較性のあるこれらの指標を、実務的にも社会に役立てたいと思っています。


我々の職域コホート研究における長期追跡の経験から、ホーソン効果Hawthorne effectといって観察される方は単に観察されることだけでも意識の変化を介してアウトカムの改善が見られることを実感しており、この効果を最大限生かして仕事のパフォーマンスや生産性、仕事の満足度・幸福度といった個人データを数値化してフィードバックし、普段はあまり意識しないものの本当は重要なことに目を向けていただくことにより心境の変化や自発的な改善を促すとともに、部署別にスコアの平均値を比較したり他者データと比較することで業務改善の気づきを得たり、何か生産性を高める工夫や施策を実行したときに、その成果を定量的に前後比較できるなど、生産性を標準化された国際的な手法で「見える化」することのメリットは非常に多いと考えられます。



国際標準化機構ISO 45003(職場における精神的な安全衛生指針)とは?

今週(令和3年6月)、国際標準化機構International Organization for Standardizationから、職場における精神的な安全衛生の指針「ISO 45003」が公表されました。(正式名称は、ISO 45003:2021(en) Occupational health and safety management — Psychological health and safety at work — Guidelines for managing psychosocial risks)

本指針は労働安全衛生(OH&S)マネジメントシステム「ISO 45001」において、職業性ストレス(職場の心理社会的リスク)を把握し改善するために策定された指針(規格ではありません)となっており、職場における心理社会的リスクの管理に関するガイダンスを提供するものと述べられていますが、労働者の健康を守るだけでなく「職場のwell-being促進を可能とする」ものとも明記されていることが印象的です。
 職場における精神的な安全衛生の指針「ISO 45003」では、職場のストレスや働く人のメンタルヘルスに影響しうる項目について、構造化して整理していますので全体像が明確になるだけでなく、システマティックに網羅的な漏れのない対応がしやすくなります。
 例えば、組織は心理社会的なリスク要因(hazards of a psychosocial nature)を同定すべきとしていて、それを3つの観点で構造化しています。すなわち、1)仕事がどのように組織されるかという側面、2)職場での社会的要因、3)職場環境、設備、危険性のあるタスク という3つの表で網羅的にチェックできるように例示されています。

DIS版のドラフト(Draft International StandardというISOの原案)段階から最終版にいたる過程を見てみると、以前は記述がなかったところにwell-being(幸福)という言葉やsocial(社会の)という言葉が加えられたり、mental health(心の健康)の代わりにpsychological health(心理的健康)という言葉が用いられるようになるなど、小さいように見えて大きな変更点が複数あることがわかります。

ISO 45001に規定される国際的な労働安全衛生マネジメントシステムの中で、職場の心理社会的リスクを把握し改善するためという主目的以外にも、Well-being at work can also contribute to the quality of life outside of work.(職場での幸福は、仕事以外の人生の質QOLにも貢献しうる)とか、Well-being at work relates to all aspects of working life, including work organization, social factors at work, work environment, equipment and hazardous tasks.(職場での幸福は、会社組織や職場の社会的因子、職場環境、職場の設備、危険を伴う仕事など、働く人生のすべての側面に関係する)といった記載があり、今後の多様化する仕事や働き方を考える上で有意義かつ示唆に富む内容となっています。

ここで何度か出てきたキーワードであるwell-being(ウェルビーイング)について、単に「幸福」と訳すこともありますが、国際的な文脈でより詳しく述べると、2015年9月に国連総会で採択されたSDGs(持続可能な開発目標、Sustainable Development Goals)でも目標とされている、肉体的・精神的・社会的に良好な状態をあらわす概念です。
 世界保健機関WHOによる健康の定義でも、Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.「健康とは単に病気でないとか弱っていないということではなく、肉体的・精神的・社会的にすべてが満たされた良い状態(ウェルビーイング)」という記述で用いられています。

職場における精神的な安全衛生の指針「ISO 45003」は、SDGs(持続可能な開発目標)の観点からは3番(Ensure healthy lives and promote well-being for all at all ages. あらゆる年齢の全ての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する)、5番(Achieve gender equality and empower all women and girls. ジェンダー平等を達成し、全ての女性及び女児の能力強化を行う)、8番(Promote sustained, inclusive and sustainable economic growth, full and productive employment and decent work for all. 包摂的かつ持続可能な経済成長及び全ての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある人間らしい雇用(ディーセント・ワーク)を促進する)、9番(Build resilient infrastructure, promote inclusive and sustainable industrialization and foster innovation. 強靱(レジリエント)なインフラ構築、包摂的かつ持続可能な産業化の促進及びイノベーションの推進を図る)、10番(Reduce inequality within and among countries. 各国内及び各国間の不平等を是正する)、11番(Make cities and human settlements inclusive, safe, resilient and sustainable. 包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する)、16番(Promote peaceful and inclusive societies for sustainable development, provide access to justice for all and build effective, accountable and inclusive institutions at all levels. 持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し、全ての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する)の目標に貢献すると明記されており、そうした大局的な捉え方のもと、職場が働く人のメンタルヘルスに影響を及ぼす領域を特定してそれに対処することを支援する構造化されたツールといえます。

多様性が重視され、仕事や働き方が多様化する中で、こうしたwell-being指標に着目して健康管理・健康経営に取り組む企業や自治体もでてきています。

産業精神保健研究機構RIOMH(リオム)として、代表の宮木教授を中心に協力を続けている大学と地方自治体の取り組みもその一つで、以前からプレゼンティーズム指標やwell-being指標が取り入れられ、まだ公表には至っていませんが興味深い研究や地域の取り組みが続けられています。
 またもう一つのリオムの取り組みとして、ISO 45003に準拠したリワークプログラムの開発があります。Rehabilitation and return to work(リハビリテーションと職場復帰)という項目があり、組織はリハビリテーションと職場復帰の適切なプログラムを計画し、実施するべきであるとされています。負の影響を受けた労働者に対して、早期かつサポーティブな対応が重要であること、組織はサポーティブで尊敬の念を持った職場環境を提供し、秘密を保持することへのコミットメントを示すことで、早い段階での問題の報告を促すことができることなど、示唆に富む記載が多くあります。具体的な手段も列挙されており、こうした項目に配慮したリワークプログラムについてもリオムでは開発に取り組んでいます。

今回公表されたISO 45003のようなガイドラインが国際的に標準化され公表されることで、職場のメンタルヘルスを促進し、働く方の健康を守るのみならず、職場の生産性やwell-beingを向上させる取り組みが日本でも促進され、そうした視点で職場づくりや働くことに目を向ける方が増えることが期待されます。

ISO 45003のイントロダクション最後に記述があるように、職場の心理社会的リスクの管理の成功は、組織のあらゆるレベルの関与とともに、特に経営トップからのコミットメントに依存するということを強調しておきたいと思います。
 そもそも労働安全衛生(OH&S)マネジメントシステム(ISO 45001)の目的は、働く人の労働関連の傷害や疾病を防ぎ、安全で健康な職場を提供することです。ISO 45003のガイダンスに従い、心理社会的リスクを同定して効果的な予防措置や保護措置を講じることで、労働安全衛生リスクを最小化することが組織にとって重要であり、産業保健関係者のみならず経営陣がコミットして国際的・標準的な取り組みを行うことが社会的にも期待されています。